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トップページ > 観光・文化財 > 金蔵院宝篋印塔

最終更新日 平成23年12月1日

金蔵院宝篋印塔 《 こんぞういんほうきょういんとう 》

−県指定史跡− 2基
 金蔵院宝篋印塔は比企郡吉見町大字大串地内にある県指定史跡の宝篋印塔である。宝篋印塔とは鎌倉時代中期に出現し、宝篋印陀羅尼だらに経という経典を塔内に納め、礼拝供養をおこなった石造塔である。
 金蔵院にある県指定の宝篋印塔は2基あり、山門の入り口には応安六年(1373年)、西側には「永和二年丙辰十一月 沙弥隆保しゃみたかやす」の銘を残す。沙弥隆保なる人物については不明であるが、“沙弥”とは仏教用語で戒律のひとつであり、永和二年は西暦1376年である。宝篋印塔の保存状態は2基とも良好で、その構造は二重式という県内でも大変珍しいタイプである。かつてはこの永和二年の宝篋印塔を含む周辺一帯が広大な金蔵院の敷地であったと言われている。
 永和二年銘の宝篋印塔は、「伝大串次郎重親塔」とも呼ばれており、文化・文政年間に編纂された「新編武蔵国風土記稿」(1810年〜1826年に編纂)には、その当時から地元の人々の間では、大串次郎の墓であるという伝聞があったことが記されている。しかし、大串次郎が活躍したのは平安時代末〜鎌倉時代初頭(12世紀末〜13世紀)で、宝篋印塔には永和二年(1376年)という銘が残されており、約150年もの開きがある。そうしたことから大串次郎の墓という言い伝えは、後世に創作されたものと考えられていた。
 しかし、平成11年に実施した宝篋印塔の保存修理・覆い屋設置工事で、永和二年の宝篋印塔の地下から、人骨が納められた13世紀初頭の中国産の白磁四耳壷はくじしじこ、12世紀後半の愛知県渥美産の大甕を出土し注目を集めた。


参考

一.大串次郎重親 《 おおくしじろうしげちか 》 について

 大串氏は、武蔵七党の一つである横山党の出身である。この党は東京都南多摩郡にあった横山庄を本拠として全国に分布した。
 重親の幼名は明らかではないが、元服に際して鎌倉武士の中でも武名の高い御家人、畠山重忠の一字をもらって改名した。それ以降、宇治川の合戦や奥州征伐に向かう重忠の家臣団の一員として、大串次郎は各地に転戦した。

二.発掘調査について


三.出土遺物について


お問い合わせ先
教育委員会 生涯学習課 文化財係 0493−54−9111

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